FRA 373rd - 「gacco:教養としての言語論:言語は私たちをまやかし生きにくくさせる」を終えて。

2021年、個人目標に挙げている、日系の #MOOC (大規模公開オンライン講座)サービス「gacco」のなかで10講座で修了証書を獲得すること。

 順番が前後するけども、今回は5番目である「教養としての言語論:言語は私たちをまやかし生きにくくさせる」を修了した。

そのまとめをしてみようと思う。

 

同講座は、非常に満足がいった。言語という、自分の中でもっとも慣れ親しんできた武器について、ちがった見方を投影する内容が、琴線に触れたように思う。

 「言語とはパラダイム(色眼鏡)である」という主張が興味深い。”パラダイム”は、どちらが良い・悪いを定義するものではなく、ものごとに対して多様な考え方や捉え方があるという前提に立つ。

たとえば西洋文化、あるいはそれに感化された世界では、病人や怪我人に対するアプローチに医療が大きな力を持つ。

他方、世界の別の一面においては、極端な話では呪術がより大きな力を持つ。

これはたしかに、なにが正しいとか間違っているとかという話ではないと思う。

西洋医学東洋医学は根本的に異なる。かたや、戦場で確立された対症療法。かたや、漢方などに始まる予防療法。(ここでいう予防にはワ〇チンは含まない。あれは詐欺まみれだと腑に落ちた)。閑話休題

 

ヒトはだれしも特定のパラダイムに拘束される。言語論においてはたとえば「論文など、記述文章が社会においてもっとも重要」という色眼鏡。

これは同僚から聞いた一節だけど「ヒトは文章より絵が、絵より音声が、音声より動画が、より理解しやすいメディアである」。

だから、動画メインのSNSによって新たなパラダイムが生まれつつある、という話。

それがいいかどうかは分からない。映像だろうが活字だろうが、普遍的なことは「ヒトが自分で考える」ことであると信じている。

Instagramなどは、写真やイラストに重きを置けるものなので、説明文などは無粋であり、見るものが意図を推察するもの、というのが講師の言。

 

本講座は、英語とわたしの接点を振り返ってみるいい機会になった。

高校に入学してから英語に関心を持つようになった。

一年生の英語教員はまじめで基礎を理解しやすい授業だった印象。

翻って、二年目の英語教員はとてつもなくアクが濃かった。

生徒の中でも、当該教員に対する印象はまっぷたつに分かれていたように思う。

すなわち、とても合うかとても合わないか。わたしは前者だった。

この教員との出会いで、さらに英語にのめり込んだ。

当時やっていたPCゲームのヒロインがイギリス出身だったことも、単純なわたしにとっては大きな理由であったように思う。

知り合いの伝手で、この年からイギリス人とのマンツーマンレッスンを毎週土曜日に受けるようになった。

教材はあったものの、ほとんどが会話にフォーカスを当てていたため、最初はとんでもなく辛かったように思う。

毎回、レッスン前の5分は憂鬱でしょうがなかった。

転機になったのは、なにがそうさせたのかは覚えていないけど、話すネタのカンペを用意して臨んだ日だった。

「準備する」という、今となっては当たり前のことが、何回も憂鬱な思いをした果てにようやく閃いた瞬間だった。

そこからもいろんなハードルはあった。

「R」や「TH」の発音の区分け。それまで英語だと思っていた単語が実はそうでないと知ったり。

特に発音は厳しく調整されたように思う。本講義の話者いわく「日本人は日本人のアクセントが残った英語で、堂々と話せばよい」だったのだけど、この当時の自分は、今思えば意味もなく「正しいイギリス英語の発音」に固執していたように思う。

 

大学に入る頃には、高校で得た経験を基に、留学への憧憬が決意になっていた。

一回生のころ、まず夏休みを利用して海外ボランティアへ行かせてもらった。

行先は火山と氷河の国、アイスランド

ここで過ごした三週間は、多くの意味でその後の自分の転機となったように思う。

韓国の仁川空港とイギリスのヒースロー空港を経由し、深夜ちかくにアイスランドレイキャビック空港に降り立った。

ボランティア団体が指定する宿につく頃にはすっかりクタクタ。

スーツケースを持って行ったのが誤りだった。。

われわれのボランティアグループは、ドイツ・ポーランド・ベルギー・スペイン・ロシア・カナダなど、国際色豊かなメンバーだった。

当時の自分は、うまく話せないから話さない、という絵にかいたような「失敗でもないことを失敗と捉え、それを恐れる日本人」であった。

それでも、グループメンバーには良くしてもらった。

自分が世代的にもっとも若いグループであったことも関係しているのかもしれない。

一歳年下のドイツ人もいたが、第二言語の英語でほかのメンバーと堂々と意思疎通をとっていたのが印象的。(ちなみに彼は、2010年当時の広島は、原爆の影響でだれも住んでいないと思っていた)

 

話を戻すと、訛りや方言はなんら恥じることではない。

標準語や流暢な英語の発音は、コミュニケーションにおいて重要なことではない。

大切なのは、意思を伝え合うということ。

そのための道具は言葉であってもいいし、絵でもいいし、映像でもいい。

既得権益層が大切にする記述文字に対して、各国の若年層は反旗を翻す。そのためのギャル語である、という見方は面白かった。

 

大切なのは、みずから解釈し、意思を伝え合うこと。