【見返り】2020年01月 / January 2020

※日記帳の内容から抜粋、まとめた内容。

 

渡独前に両親と同居していたころの内容。

一緒に暮らしていた時、体調不良の父親を煙たがっていた自分について書いてあった。

 

逆流性食道炎というやつなのか、父はよくえづいていた。

食後すぐに体を横にすると、胃液がのどまで上がってくるような状態だった。

「食べ終えてから30分は寝転がってはいけない」と忠告しても何度も繰り返す。

理解できない。

なぜ苦しむと分かっていて、なおかつおぼろげながら対策があるというのに、実践しないその心境が分からない。

そのことにも苛ついていたのかもしれない。

えづく時の大仰な苦しみ方を醜いと感じてしまった。

そして日記には、そんな父を醜いと思う自分自身の心の狭量さ、器の矮小さに触れていた。

 

今、両親と離れて暮らしている時には、毎日10-15分程度テレビ電話している。

距離なのか。この心境や態度の違いの原因は。

両親を愛しているのなら、距離は関係ないのではないだろうか。

本当に不足しているのは、理解できないことを受入れ、それでも愛を示す姿勢ではなかろうか。

祖母が自失してしまった時と同じことだ。

自分は成長していない、そう思う。

 

なにごとも「明日は我が身」であることは間違いない。

対岸の火事」だと思っていたことが、遠くない将来に自分へ降りかかってくる。

グローバリズムというのは、地球の裏側で起きている出来事のごくごく表層部分を恣意的に展開し、あらゆることを単一化かつ単純化することだ。

シンプルが一番というが、大量の人、複雑な自然、いまだ解明されない過去、これらを一緒くたにすることが、果たして正しいのか。

 

本来、疑問を抱えることや、そもそも考える能力というのは、人間に許されている特権ではなかろうか。

動植物には本能が備わっており、人は本能を犠牲に思考能力を得た。

これは本能に次ぐ第二の判断システムだ。

ものごとを単純化することは、あえて言えば愚鈍化にもつながる。

危うい。あらゆるものが危うい。

考えるか、考えないか。やるか、やらないか。結論はシンプルなものかもしれないが、行動の過程で得るものは千差万別にちがいない。

 

- 以上